未来を見据えたプロレス(後編)
さて、前回はケニーの見据える未来について思うところを書きました。
今回は、棚橋の見据える未来について書いていきたいと思います。
②棚橋が目指すプロレス
ここ最近の各媒体によるインタビューだけではなく、棚橋の昔からの信念は一つだと思う。
「わかりやすいプロレス」
見に来てくれる客のことを第一に考えてプロレスをする棚橋のスタイルは彼のキャリアが作り出したものだということは言わずもがな。棚橋がデビューしてすぐに総合格闘技のブームが来てプライドが台頭した。世間は総合の目新しさに感動した。それと反比例するかのように、プロレスは人気が低迷するのである。
これは、ブームの総合に乗じて格闘技路線に舵を切った新日本の失敗でもあったと思う。プライドにおける永田裕志の対ミルコクロコップ、エメリヤーエンコヒョードル戦の失敗はその代表例である。新日本内だけに目を向ければ藤田和之がIWGPを巻いたのもその頃だろう。藤田のプロレスは相手をただ圧巻して終わらせるスタイルで、現代のプロレスとはかけ離れたものだった。この藤田のプロレスを「猪木イズム」と便宜的に表現したい。
「猪木イズム」は確かに、昔のファンからはある一定の指示を受けた。もちろん、怪獣のような藤田が相手をフルボッコにする姿は新規のファンを獲得することも助けたとは思う。ただ、それは長続きはしなかった。
「猪木イズム」は、現代の棚橋の言葉を借りて表現するなら「食傷気味」だったのである。プロレスにケーフェイがあることはミスター高橋氏の暴露本によって世間には周知されていた。その認知で「猪木イズム」を繰り広げられても、、、と昔のファンが我に帰る瞬間があったのだと思う。新しいファンからしてもただただボコり続けるだけのプロレスを見るくらいなら総合でいいやとなる。
結果としてファン離れが進んだ。
いわゆる暗黒期という時期であるが、ここに立ち向かったのが棚橋であり、中邑であった。中邑は格闘技村の出身ということもあって、打撃やサブミッション主体のスタイルであったが以降はそれを織り交ぜた独自のスタイルへと変更していった。棚橋は若手時代の大量の技(武藤の技はほぼ全部使っていたし、アメプロ的な技も大量に使っていた)を淘汰し、現在につながるようなスタイルへと変更した。どちらも「わかりやすいプロレス」という部分にフォーカスしたものだと受け取れる。
両人とも、ファンに目を向けたスタイル変更であり、その二人のライバルストーリーを基軸に新日本は盛り返していった。
この「わかりやすさ」がどれほど大事であったかを示す史料として、同期の総合格闘技の低迷を挙げたい。皮肉にも、プロレスが「わかりやすさ」へ舵を切ったところ、総合はどんどん「わかりにくく」なっていていた。
これは、総合が初期のドンパチ的な打ち合いであったところから、選手の技術向上によってテクニカルな攻防へと進化していったからである。スポーツ競技としての総合格闘技になっていったのである。識者や各格闘技経験者からしてみればこの時点でも見ていて面白いが、ドンパチ好きのファンからしてみれば見ていて眠くなるものであった。試合開始からテイクダウンまでが長くなった、寝技の攻防が複雑化した、判定決着が増えた、判定勝ちのためにポイント集めのような戦い方が増えた、など例を挙げればきりがない。とにかく「わかりにくい」のである。
こういった歴史的経緯から、棚橋が「わかりやすいプロレス」を重視するのもわかるだろう。総合ブームで離れていったファンが久しぶりに見たプロレスで「わかりやすく」理解できる、初めて見る観客が一回でプロレスを理解できる。地道に一歩一歩前進してきた棚橋にとってケニーは異物に近しい存在なのだ。
棚橋が危惧するのはケニーのプロレスによって新日本が暗黒期、ないしはそれに近しいものへと逆行してしまうことである。
棚橋は、「プロレスは長い目で見る必要がある」と言った。つまり、ケニーのプロレスは一見すると華やかで見栄えするが、それが長く続くかという部分に疑問符を呈したのである。
海外進出についても、海外に向けてスタイル変更した新日本プロレスよりも日本での新日本プロレスをそのまま海外に輸入すべきであるとしている。確かに、WWEやTNAの真似事をしたところで認知度や長い目での集客には向かない。ここもケニーとのベクトルの違いである。
総評すると棚橋の未来を見据えたプロレスは、「過去に逆行しないわかりやすいプロレス」である。
ケニーは棚橋を老害と称したが、老人には老人の経験ややり方がある。それらが今後の新日本プロレスを作り出すのか、または淘汰されていくのか、全て東京ドームで決まる。